東日本大震災から15年で薄れたのは、出来事そのものの記憶ではない。自分もまた災害の当事者になり得るという現実感である。節目のたびに追悼の言葉が並ぶ一方で、防災の話になると急に空気が散る。このズレを直視しない限り、「忘れない」という言葉は社会を守る力にならない。
2026年3月11日で、東日本大震災の発生から15年を迎えた。地震、津波、原発事故、避難生活、地域の分断、長期の復興という複数の課題が重なったこの災害は、日本社会の弱点を一度に露出させた出来事だった。15年という時間は長い。だからこそ、人は節目を「整理の機会」にも「距離を取る口実」にも使える。
ここで起きやすいのが、追悼の場で論点がずれる現象だ。被害や教訓の話ではなく、政治への不満、メディア批判、誰が本気で祈っているかという態度の監視に関心が移る。もちろん政治や報道の検証は必要だ。しかし、震災の節目で毎回そればかりが前面に出るなら、その反応は検証というより、災害を自分事として引き受ける不快さからの逃避に近い。
なぜこうなるのか。理由は単純で、災害の教訓は生活の変更を要求するからだ。家具固定を見直す。避難先を確認する。家族との連絡手段を決める。非常食や水を更新する。住まいと通勤経路のリスクを知る。これらは面倒で、しかも平時には効果が見えにくい。だから人は、悲しみや怒りの共有には参加しても、生活を変える段階では止まりやすい。感情は共有しやすいが、行動は負担を伴うからだ。
15年の変化を時系列で見ると、この傾向は理解しやすい。2011年直後は、誰もが災害を近く感じていた。節電、備蓄、寄付、避難、原発、安全保障、エネルギー政策まで、一気に現実の問題として語られた。その後、時間の経過とともに制度やインフラの見直しは進んだ一方、個人の切迫感は少しずつ薄れた。災害の危険が消えたのではなく、日常の利便性が恐怖を上書きしたのである。
ここで重要なのは、「記憶が薄れた」と雑に言わないことだ。映像も証言も追悼式も学校教育も残っている。実際、多くの人は震災の年月日を知っているし、当時の映像を見れば心も動く。問題は、知っていることと備えていることが一致しない点にある。つまり失われやすいのは知識ではなく、知識を現在の行動へ変換する現実感なのだ。
このズレが危険なのは、次の災害で同じ混乱を呼び込むからである。災害は、発生後に一気にすべてを学ぶには大きすぎる。平時に想定しておいた人と、想定を避けてきた人の差は、初動で大きく出る。避難の遅れ、備蓄不足、情報の読み違い、家族との連絡断絶、地域での支え合いの欠如。こうした差は、意識の高低ではなく、平時に現実感を持てたかどうかで広がる。
では、追悼や感傷は無意味なのか。そうではない。感情の共有は、出来事を忘れないための入口として必要である。ただし入口を出口にしてはいけない。祈ること自体は大切でも、祈ったことで責任を果たした気分になると、震災は「共感のイベント」として消費される。必要なのは、悲しみを生活の更新へつなげる回路だ。
反対意見として、「節目に静かに祈るだけでも十分ではないか」という考えもある。確かに、すべての人が公に防災を語る必要はないし、被災の記憶に向き合う方法は人それぞれだ。ただ、社会全体で見たとき、節目の話題が感傷だけで閉じるなら、防災文化は育ちにくい。個人の祈りを否定する必要はないが、社会の習慣としては、それを行動へ接続する工夫が欠かせない。
今後の継承で中心に置くべきなのは、「かわいそうだった」「大変だった」という情緒の反復ではない。どの制度が機能し、どこが止まり、何が届かず、誰が取り残され、個人は何を備えるべきだったのかという具体である。比較で言えば、追悼は過去を見つめる行為であり、防災は未来の被害を減らす行為だ。両者は対立しない。むしろ、追悼が本物であるほど、防災に接続されなければならない。
「もう15年」と言うのは簡単だ。しかしその言葉が、区切りではなく距離を取るための言い訳になった瞬間、教訓は弱くなる。15年たった今に必要なのは、震災を特別な一日だけの話にしないことだ。ニュースとして見るのではなく、自宅、職場、学校、移動経路の問題として引き寄せること。その作業を避ける限り、私たちは記憶を持っていても、現実には備えていない。
読了後の行動は一つでいい。今日中に、自宅の備蓄と避難導線を一度だけ確認してほしい。それが「忘れない」を感情ではなく現実へ戻す、最も小さくて確実な一歩になる。

