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疲れの正体は仕事量ではなく「感情を殺した時間」かもしれない

コラム
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結論から言うと、人を深く疲れさせるのは「やった量」そのものではなく、「感じたのに出せなかったもの」の蓄積です。今回の投稿に多くの人が強く反応したのは、これまで自分の疲れを「忙しかったから」としか説明できなかった感覚に、別の名前が与えられたからだと思います。実際、作業量が多い日でもそこまで消耗しない日があります。逆に、仕事量はそれほどでもないのに、妙にぐったりして何もしたくなくなる日もあります。この差を生むのが、感情を抑えた時間です。

作業量による疲れは比較的わかりやすいものです。長時間動いた、考え続けた、睡眠が足りない、締切が続いた。こうした負荷は身体や認知に直接かかります。一方で、感情を殺した時間の疲れは見えにくい。嫌だったのに笑った、断りたかったのに合わせた、腹が立ったのに飲み込んだ、不安なのに平静を装った。こうした行為は外から見ると「ちゃんとやれている」に見えるため、本人すら疲労の原因を見失いがちです。

ここで重要なのは、感情を出すことと感情に振り回されることは別だという点です。社会生活では、ある程度の感情調整は避けられません。誰でも場に合わせますし、仕事で一定の態度を保つ必要もあります。ただ、その調整が一時的なものではなく、自分の本音を長時間押し潰す形になると話が変わります。自分の内側では「嫌だ」「つらい」「理不尽だ」「休みたい」と反応しているのに、外側ではずっと「大丈夫です」「問題ありません」「平気です」を続ける。このズレが大きいほど、人は削れていきます。

だから接客、営業、看護、介護、教育、コールセンター、管理職、家庭内ケアのような役割は、単純な作業量だけでは測れません。これらに共通するのは、人の期待に合わせながら、自分の感情表現を調整し続ける場面が多いことです。しかも厄介なのは、その負荷が成果として可視化されにくいことです。資料を何枚作ったか、何件対応したかは数えられても、「何回傷ついたのを飲み込んだか」「何回無理に笑ったか」は評価表に載りません。見えないのに確実に効いている。この非対称さが、感情労働のしんどさです。

この見方が刺さるもうひとつの理由は、休んでも抜けない疲れを説明できるからです。単なる作業疲れなら、睡眠や休養でかなり戻ることがあります。ところが感情を抑え続けた疲れは、体を休めるだけでは回復しにくい。なぜなら、傷んでいるのが筋肉だけでなく、「自分の感覚を無視し続けた状態」だからです。休んでいても、頭の中で対人場面を反復したり、「自分が悪かったのかもしれない」と処理し続けたりすると、疲労は止まりません。これは根性の不足ではなく、負荷の種類が違うということです。

もちろん、すべての疲れを感情だけで説明するのは雑です。睡眠不足、病気、栄養、運動不足、長時間労働など、身体側の要因は無視できません。ただ、それでもなお見落としてはいけないのは、私たちが疲労を測るとき、やった量ばかり見て、我慢した量を数えていないことです。そのせいで、本当は環境の問題なのに「自分が弱い」で片づけてしまう人が出てきます。

必要なのは、「今日はどれだけ働いたか」だけでなく、「今日はどれだけ自分を消したか」を見ることです。嫌だったのに飲み込んだ場面が多い日、必要以上に相手に合わせた日、傷ついたのに反応を止めた日。その日は、作業量が少なくてもしっかり疲れます。この感覚を認めるだけで、自分の消耗の理由はかなり見えやすくなります。

読了後の次アクションは一つです。今日いちばん無理して飲み込んだ感情を、ひとつだけ言葉にしてください。「腹が立った」「悲しかった」「怖かった」「本当は断りたかった」。それを言語化することが、見えない疲れを見える疲れに変える最初の一歩になります。